大沢村は明治5年、学制の発布を受け、明治6年7月1日、 地家の龍泉院に小学校を創設、その名も「文明学校」と称しました。
明治22年に大沢村役場が開設されると村がまず取り組んだのが小学校建設でした。明治24年7月村会で可決、9月から整地工事に掛かり、明治25年2月に建設に着手し同年4月20日上棟、翌26年5月1日竣工移転式が行われた。
建築用材は地元共有林から切り出した。木材出しや敷地の地ならしも村民の手で行った。建築費用は3,425 円で村費は200円、あとの大部分は村人の寄付金と共有林からの材木によって造り上げた、まさに村民あげて明日の村を担う子ども達のための学校建設だった。
この建物は、大沢尋常小学校として明治 25年2月に着工(4月20日上棟)し、翌明治 26年4月に竣工した。木造2階建桟瓦葺寄棟造りで、正面玄関を入ると東西に中廊下その両側に教室を配し、中央に踊り場付き階段を設けた明治中期特有の学校建築様式を示す校舎です。玄関と2階講堂の入り口には半円形のガラスの欄間で飾り、四方に開口部を広く設け当時は珍しいガラス窓が入る。
外壁は西洋下見板張りに胴蛇腹を廻し、真っ白くペンキが塗られた。岩盤を掘り下げ整地し、大きな真石を並べ、その上面に合わせて3m もある切石(四偶はL型に加工)が据えられた。堅固な基礎の上に、約20 cm角の通し柱が50 本、小屋組みは豪快な部材が縦横斜めに渡る洋小屋風(クイーンポストトラスを模った) 造り、校舎は今もって床のきしみ音もないほど頑丈で、創建時のまま大きな改修もなく今日に至っている。
下見板張りの外壁と広く設けられた引き違いのガラス窓、これは、やがて全国に普及する学校建築スタイルで、懐かしい木造校舎のイメージと重なり、旧大沢小学校(本館)はその先駆け的学校です。
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中央の玄関から階段を望む |
中央玄関はレンガ敷きで覆輪目地、入口にはガラス製の欄間 |
二階講堂入口にも半円形のガラス製の欄間 |
東西に中廊下が走り、その両側に教室をが配置 |
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龍と花の鬼瓦 |
水落とし |
ノスタルジックなガラス窓 |
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中央玄関を望む |
校舎北側は白いペンキが残り、 |
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踊り場より中央玄関を望む |
東階段二階から踊り場を望む |
外壁の下見板断面 |
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46尺の陸梁の上面に合わせて添え梁、 |
雨天体操場と東校舎の落成記念写真 |
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図書館 |
家庭科室 |
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校名扁額 大給恒の書
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東郷平八郎の書「在此一戦」 |
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卒業記念レリーフ
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歴代校名の看板 |
大沢ドンドンの太鼓 |
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棟札
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新築仕様書及び目論見帳 |
大沢小学校閉校時の先生方のことば
旧大沢小学校は、明治26年4月に完成して以来、同一場所に校舎もほぼ創建時のまま現存しています。築130年を超えているが、校舎の堅牢さは基礎から小屋組まで骨太学校と評されるほど頑丈で、今だ床鳴りもなく保存状態はすこぶる良好です。
さらには、窓枠、階段、外壁の下見板などの造作は繊細で丁寧な造りです。明治・大正・昭和とおよそ一世紀に亘り小学校として使用されてきた木造校舎には、各時代の痕跡や閉校時の姿がそのままの状態で保存されています。校舎・建物本体の保存状態の良さに加え、閉校時の校舎内外の状態をそのまま留めているのが旧大沢小学校の魅力です。
近代学校建築は、明治5年の「学制」の頒布と共に始まりました。当初は文明開化の波に乗り、ベランダや塔屋を設け、窓は小さく上げ下げや開き窓の付いた漆喰壁の学校が造られました。しかし長続きはせず明治10年代でほぼ終息しています。
明治20年代になると外壁は漆喰から下見板張りが主流となり、窓は大きく開けられ引き違いのガラス窓の入った学校が造られるようになりました。形は多少違ってもこの2点は共通で、以後戦後のRC造りに代わるまで日本全国津々浦々に建てられ、今では懐かしい木造校舎のイメージ像と重なり、人々の郷愁を誘っています。
そんな全国に普及した木造校舎スタイルの先駆け的学校が旧大沢小学校と言えます。外観の派手さはないが、文明開化期のデザインなども残し、シンプルで洗練された美しさは、懐かしい木造校舎のシンボル的存在です。